出過ぎた杭は打たれない

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冷然とした東大理系卒の雑記帳

東日本大震災被災地を訪問して 前半編(2019/9/9~12)

 9月に参加した、大学のスタディーツアーで8年半前の2011年3月11日の東日本大震災で被災した三陸地方を、宮城県南三陸町から岩手県陸前高田市、大船渡市、釜石市までの順に北上する形で見学してきた。

 関連事項も書くとどうしても分量が多くなったので、2回に分けて書いた。今回は前半編として主に宮城県南三陸町岩手県陸前高田市への訪問の備忘録を残しておく。まだ編集余地のある拙い文章であるがご了承願いたい。

 

 

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はじめに

 被災地に行く前は、被災地が抱える課題として「震災からの復興」、他地域にも言える「人口減少と少子高齢化」の二つがあるのだろうと思っていた。

 確かにその予想は的中していたが実際に現地に行って初めて感じたのが、同じ被災地でも「震災からの復興」という点で大きくムラがあるということであった。南三陸町陸前高田市では、沿岸部におけるかさ上げ工事や川の護岸工事をまだ行っている。それに対し、大船渡市と釜石市では、既に商業施設も立ち、一般的な地方都市程度の賑わいを取り戻しているという印象を持った。


南三陸町

陸前高田市

大船渡市

滞在した各都市の写真(釜石市は残念ながら写真を撮っていなかった。)

 

 以下では各都市ごとに自分が感じたこと、スタディーツアー参加者同士で議論して自分が関心を持ったことを記していくことにする。また、各都市で一番心に深く刻まれた話題を僭越ながらサブタイトルにした。 

 

宮城県南三陸町

~住居の高台移転後も昔からのコミュニティは維持できるのか~

 震災時で津波が来た低地は居住が制限され、高台に新居が作られる場合が多い。例えば三陸に多い漁村の場合、今までは港に近い場所に住むことで職住近接が成り立っていたが、震災後政策によって海沿いには居住出来なくなり、港へ通勤という形態を取るようになった。居住できなくなった低地は、単なる空き地にはせず、商業施設を建てていく計画となっている。定住のための住宅は建てられないが、短期滞在のためのホテルは海沿いに建っていたりする。

 

東日本大震災からの復興〜南三陸町の進捗状況〜 https://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/index.cfm/6,7752,c,html/7752/20190523-144644.pdf より

 

 ただし高台と言っても住む場所が限られていたり、飛地であったりするので、震災前の集落のコミュニティをそのまま高台へ移すには困難が伴うように思えた。

 

南三陸町さんさん商店街 https://www.sansan-minamisanriku.com

平日に訪れたが、人の気配は無かった。地元向けというより観光向けの施設という印象。

 

 南三陸町の湾は普段穏やかでほたて、あわび、わかめ、ぎんざけが取れる。震災当時、津波が来る前は海底が見えるほど潮が引いていたという。

 津波を受けた建物のうち、犠牲者が出た建物は震災遺構として残されないのが一般的である。しかし南三陸町の場合は多くの犠牲者が出た、市の防災対策庁舎が例外的に残されている。3階建で屋上で10名の方が生き残ったが、43名の方が亡くなった。

 

岩手県陸前高田市

~道の駅が誕生~

 陸前高田市では街の印象として、一般的な地方都市にあるような国道沿いに店が立ち並び発展する(東京付近では大宮より以北とからしい)のとは違い、駅を中心に発展しているのが非常に興味深かった。

 海に近い場所は震災後、かさ上げされた。今もまだ広い範囲でかさ上げ中である。かさ上げした場所は今のところ住居というより水田に使われている印象がある。ならばかさ上げした意味が分からないかもしれないが、排水対策になっているらしい。

 「奇跡の一本松」があるのはここである。松原はまだ苗の状態で震災前に戻るまであと50年ほどかかるそうだ。

 海に面した都市にも関わらず、震災後にさらに高く築かれた堤防の影響で街からは海が見えない。これはこの後に訪れる大船渡市、釜石市にも言える。

 

道の駅高田松原 http://www.thr.mlit.go.jp/road/koutsu/Michi-no-Eki/iwate/iw02.html

2019年9月22日、高田松原津波復興祈念公園(岩手県陸前高田市)内にオープン

 

後半編へ続く